弘法大師空海

弘法大師空海の生涯

 774年6月15日、空海は讃岐国(=現在の香川県)にて三男として誕生しました。幼名は「真魚(まお)」といい、幼い頃から聡明で、桓武天皇の皇子の教育係を務めた伯父、阿刀大足(あとのおおたり)から詩や漢語、儒教を学んでいました。

 18歳になった真魚は大学に入学しますが、そこは官僚養成所、出世のために学ぶ場所でした。真魚は困っている人を助けたいという想いが強く、それには仏教の教えが重要だと考え、大学を中退し、僧侶として生きることを決意します。

 修行を続けていた空海は、奈良県にある久米寺に納められていた密教の経典、『大日経』と出会い、密教こそが人々を救う教えだと気付き、31歳のときに、遣唐使として唐へと渡りました。唐では、密教の理解に必要なサンスクリット語(梵語)も学びつつ、密教の勉強に励みます。
 そして唐に入って約半年後、真言密教を正式に受け継いだ僧である恵果和尚(けいかかしょう)に会います。恵果は一目で空海を認め、自身の弟子にして密教のすべてを伝授。わずか3ヶ月という短い期間で、空海は師である恵果から「真言密教の師」と認められたのです。

 

  唐へ渡った二年後の806年に空海は日本へ帰国し、816年に和歌山県の高野山に真言宗の修行道場として「総本山金剛峯寺」を開創しました。
 そして835年3月21日(旧暦)に62歳で入定されました。空海は今も高野山奥の院で永遠の瞑想の中、人々のために祈りを捧げています。空海の入定後80年以上が経過した921年に、醍醐天皇から生前の功績として「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られました。

弘法大師空海の功績

 空海は、共に唐に渡り研鑽を積んだ天台宗の開祖「最澄」や、密教を学んでいた浄土宗の開祖「法然」、浄土真宗の開祖「親鸞」など、後の日本仏教の礎となる僧侶たちに多くの影響を与えました。また、祈りを形にすべく、人々の生活や文化にも数々の功績を残しています。

●満濃池の改修工事
 洪水により決壊した香川県にある満濃池の堤防。しかし、労働力不足により工事が進まず、国司や郡司は技術面、宗教面から空海に協力を依頼し、短期間で従来の数倍の強度を誇るため池が完成しました。その時に作られた堤防は、1,200年経った今でも使われ続けています。

●最古の漢字辞書を作成
 「弘法筆を選ばす」ということわざがありますが、日本の三筆の1人でもあります。数々の著書の他、「篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)」という、日本に現存する最古の漢字辞書を作ったと言われています。

●教育機関の創設
 828年、空海は京都に「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を創設しています。綜芸種智院は平安初期の庶民教育機で、日本初の私立学校です。当時の大学や国立大学への入学は、厳格な身分制限があり、一般庶民には難しいものがありました。空海は綜芸種智院を設立し、教育を受ける機会が誰しも平等になることを実現しました。